スピリチュアルとか見えないものとかについて 20200902 天赦日

先日8月に起こった事を記載したけど、誰かに伝えたいとか分かって欲しくて書いているわけではない。
ただ未来の自分が見た時に、この時期に起こった詳細を思い出せるように書き留めておく必要があるような気がして残してある。
普通なら誰にも見せたり言ったりしない部分だったと思う。

前回書きそびれた部分があるので追記しておく。

みとし神社

スピリチュアル系について

スピリチュアル系はいまだに大の苦手
よく分からない抽象的な表現や勝手な決めつけは大嫌いで、以前に先生を何度も泣かせたことを思い出す。
その泣かせるほど詰め寄った理由も自分ではわかっている。

それは誰にでも分かりやすく説明しないと救える人が大幅に減るから。
その為に自分が代表してかなり大げさに詰め寄ったのだと思う。

見えないものや証明できないものに関して嫌悪感を抱いていて、自分では感じていても、ずっと心の底で「口にしてはいけないこと」として扱ってきた。

それが8月半ば頃にすっと降りた。

自分でも不思議なくらいあっさりと「抵抗しなくてもいいや」と思えた。
きっかけとなる出来事があったとか考え抜いたとかそういったものではなく、なんとなくすっと降りた。

 

こういった事を書き記すのも役割的なものを感じているのだと思う。
全てにおいて始まりと終わりは強調されるけど、詳細な経過は見逃されがちで、人が必要とする部分は、本当はそういった具体的な変化の経過である事を理解しているからだと思う。

 

自分で記載しながら自分の言葉じゃないような、以前なら全否定して打ち消していたものも、それはそれで大切で必要な事の様に思える。

 

隠し通す事が思っていたよりも重荷だったのか随分楽になった気がする。
正直なところまだ自分でもおかしなことを言う人になりたくないといった抵抗はあるが、そういった微妙な時期だって見て安心する人もいると思う。

 

ステージが変わった

それが何を意味するのか、それすらよく分からないし分かりたいとも思わないが、一番しっくりくる言葉だとも思う。
多くの人や物事が離れた感覚や、逆に新たに繋がる人や物事が少々変だと感じる部分があり、今までしがみついていたものや決まりが、全く通用しないとか不要といったところに移動した気がする。
勿論物理的に離れたわけじゃないが、距離感や価値観が圧倒的に変わってしまい、何より楽しかったはずのものが、全く興味もないといった状態になっている。

それは大人になった自分が、あれだけワクワクしていた公園のブランコにさほど楽しみを感じなくなったのと似ていると思う。

頭で考えるというより8月は直感重視で動いたので、意味があるのだと思う。
過去にも繰り返しやってきた「直感期」みたいに、自分が何故そうしたりそう言ったりしているのかは分からないが、後になるとそれがとても重要な意味を持っていたといった感覚。
今はそれに従っている。

なんとなく見た景色や行ったところ、映画や動画などからのメッセージも含め、物凄く受け取りやすい状態になっている様に思える。
多分、「否定はしない」そう思っているからだろう。

ひっかかる言葉

メッセージでも引っ掛かりのある言葉というかニュアンスも含めると多々出てくるものがある。
何故出てくるのかはよく分からないが変な心地よさというか納得と言うか知る事といった感覚がある。
中には言葉の意味すら知らず初めて聞く物もある。

達観、パラレルワールド、リーダーシップ

この3つはホントによく出る。
またかといったレベル。

魂レベルとか肉体レベルとかといった言葉が出ている時は、恐らく今の自分の言葉ではないように思う。
自分から見ても何を言っているのだろうか?と思える時もあるが、必要としている人にはしっくりくるようだ。
これも伝え方のひとつであり、そこに善悪なんて基準はないのかも知れない。

 

黒い部分

知りたい部分と必要な部分として、黒い部分の扱いをどうするのか?過去の人はどうしていたのかが気になる。
光のワークとか自分にはよくわからないが、過去にそういった事をしたり伝えたりした人達は、人間界レベルのそういった影の部分をどう処理していたのだろうか?
そう気になっている時に、直感で見た映画が「マザーテレサからの手紙」だった。

人前では笑顔でありながら当人は、「自分は神から見放された」と思っていたらしく彼女が、ではどうしていたのか?が気になった。
恩師?に手紙を書いていたようだが、これは僕で言うところのブログやノートに書きだす作業と似ているのだろうかとも思った。
マザーテレサ云々ではなく、あくまでその黒い部分をどう処理しているのかが気になる。
それは人間である以上、また光が強ければ強いほど影も存在するのではないかと思うから。
そんな部分を記載している文献なんてあまり見たことがないと思う。
元々気にもしなかった部分だから余計にそうなのかも知れないけど。

 

残すものと世界

残すといった事が自分の中でもキーワードになっている。
自分の為だけじゃなく、また自分の事だけでもなく、状況がそういった事にシフトしている。
しょぼい世界の評価や基準などがどうでもよく、もっと壮大な世界を見ている様に感じるので細かい事が気にならない。
今後に残さなければならないものや方法などについて、考えたり相談されたりする事が増えている。
今現在理解されるとか、されないとかのレベルではなく、何をどう残すのかが大きな課題になっている様に感じる。
誰の為とか、必要、不必要なども関係なく、自分はどうするのか?その部分だけがクローズアップされている。
短期的なものではなく圧倒的にスケールが変わっている事により、本質が物凄くクリアに見えている。

 

何をやっているのだろう?

こんな事を書いたり、急に行きたくなって行ったり、一体何をやっているのだろう?
そう思う事が急激に増えた。
ただ、それに逆らわなくてもいいし分かる必要もないと思える。
これを記載して誰かが見るとか反応するとかしないとかは、もはやどうでもいいレベルになっているし、おかしな奴であったとしても、その基準と言うか「普通」といったものは環境や時代で左右されることを知っている。
こんな時期は初めてではなく、何度か体験していて、そこに深い意味があったことも覚えている。

 

今の自分がすべきことは、ただこうやって残したいと思ったものを残すだけでいいのだろうと感じる。

 

そう、否定せずに

 

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